「現代医療こそが、人々の健康を脅かす最大の要因である」――この衝撃的な問いかけから、イヴァン・イリッチの『医療の限界 – 医療ネメシス:健康の収奪』は始まります。本書は、現代医療に対する根本的な批判を展開する画期的な著作であり、1976年の初版以来、医療のあり方を問い直し続けています。この記事では、本書の核心である「医原病」や「医療化」といった重要概念をわかりやすく解説します。
イリッチの視点:「医原病」という現代医療の逆説
イリッチは、医療の進歩とされるものが、実は「医原病(iatrogenesis)」、つまり医療行為そのものが原因で新たな病気や健康問題を引き起こすという逆説的な状況を生んでいると主張します。彼は医療がもたらす害を3つのレベルで分析しました。
- 臨床的医原病: 治療、投薬、手術などの医療行為が、患者に直接的な害を与えること。
- 社会的医原病: 医療制度が社会に浸透しすぎることで、人々が自ら健康を管理する能力(健康の自律性)を失い、社会全体が不健康になること。
- 文化的医原病: 医療が、人々が本来持つべき病や苦しみ、死と向き合う文化的な力を奪ってしまうこと。
本書は、これらの「医原病」概念を通じ、医療の過剰な専門化・産業化が、いかに私たちの「自分で健康を守る力」を奪っているかを鋭く論じます。
レベル1:臨床的医原病 – 医療は本当に効果があるのか?
第一部では、現代医療の有効性に対する「神話」に疑問が呈されます。イリッチによれば、感染症の減少などは、医療の進歩よりも栄養改善や公衆衛生の向上によるところが大きいと指摘します。例えば、結核やジフテリアなどは、特効薬やワクチン普及以前に大幅に減少していました。
むしろ、薬の副作用、不必要な手術、院内感染、医療過誤など、医療行為自体がもたらす害(臨床的医原病)が増加していると警告。当時のデータを用い、医療の進歩が必ずしも健康増進に直結しない可能性を示唆しました。
レベル2:社会的医原病 – 「医療化」される私たちの暮らし
第二部では、生活全体が医療に依存していく「医療化(Medicalization)」の問題を分析します。イリッチは、医療が「絶対的な独占状態」となり、人々が自力で健康を管理する力を奪われていると主張します。
- 健康定義の独占: 医師が健康・病気の定義を独占し、人々は専門家に依存するようになります。
- 医療費増大の罠: 医療費が増えても必ずしも健康状態は向上せず、むしろ他の社会資源を圧迫する可能性を指摘します。
- 薬への過剰依存: 強力な医薬品が、伝統的な知恵や自身の治癒力への信頼を損なわせる側面があると考えます。
このように、医療が社会に過剰に浸透することで、人々が健康に対して受け身になり、自律性を失っていく状況を「社会的医原病」と呼びました。
隠された側面:医療は「価値中立」ではないという指摘
イリッチは、医療が客観的・中立な科学であるという見方を否定します。医療は法律や宗教のように、何が「正常」で「望ましい」状態かを決定する道徳的な力を持つと指摘。医師が持つ診断や治療選択の権限には、社会的な価値判断が内包されているのです。
著者による再考と「文化的医原病」への視点(1995年版序文より)
後年の序文でイリッチは、自身の議論を振り返り、健康を単なる「対処能力」として捉えることの限界や、本書が意図せず医療システム強化に使われる可能性への懸念を示しました。また、「文化的医原病」、つまり医療が発達しすぎることで、私たちが痛みや苦しみ、老いや死といった避けられない現実と文化的に向き合う能力を失ってしまう、という側面への思索を深めています。
『医療の限界』の現代的意義:なぜ今も重要なのか?
イリッチの問いかけは、単なる医療技術批判にとどまりません。現代社会における「健康」や「病気」の意味そのものを問い直させます。彼は、医療が社会構造を維持する機能(人々を病気にしやすい環境で働かせ続け、医療で「修理」する)を担っている可能性を指摘し、健康問題の根本原因から目を逸らさせていないかと警告します。
医療費や制度の議論だけでなく、私たちの社会や生活様式そのものが健康に与える影響、そして失われつつある健康への自律性について考える必要性を、本書は強く訴えています。
結論:医療の「限界」を超えて自律性を取り戻す
イリッチは、医療による害からの回復は、専門家任せではなく、私たち自身が主体的に取り組むべき政治的な課題だと主張します。人々が自らの健康をケアし、病や老いと向き合う力を取り戻し、医療技術への過度な依存とのバランスをとること。それが、より健康な社会を築く鍵となると説きます。
『医療の限界』は、医療技術の進歩が必ずしも幸福に繋がらず、むしろ人間の自律性を奪う逆説を明らかにしました。単なる制度改革ではなく、健康と病気に対する私たちの文化的な見方そのものの変革を求める、挑戦的な一冊であり続けています。
(補足:イリッチは中国の「はだしの医者」の例などを引きつつ、医療の専門化・技術化の問題が特定の体制に限らず普遍的であることも示唆しています。)