米国式科学的整体とは、アメリカ発祥の医学体系であるオステオパシーのことです。
オステオパシーの歴史
オステオパシーとは?
OSTEN = 骨
PATHOS = 病理、治療
治療のシステム、方法、科学
・1874 年にアメリカ人のA.T. スティル医師(MD)によって提唱された医学体系。
・構造と機能を生理学の観点から調和をさせ、身体の緊張と制限を取り除き、人間の持つ免疫を強化させ、自然治癒力の増進を図るためのアプローチを、手技を使って脊椎および神経系にあたる。
AT.スティル(Andrew Taylor Still) MD
(1828~1917)
24歳 本格的に医学を学ぶ。
32歳 カンザス大学で薬学と外科手術を学ぶ。
37歳 南北戦争で外科医の役を務める。
37歳 脳膜炎により家族の4人が死亡。
彼の医師としての信念は粉々に砕かれた。
AT.スティルの研究
・構造(解剖学)に注目して医学を研究した。
・構造、解剖、筋骨格系の異常が、機能の異常と結びついていることを発見した。
・動脈の優位性について唱えた。
身体構造の異常が体循環に悪影響を及ぼす
・ 脊椎の歪みにより、正常な神経伝達が異常になり、内分泌系、血液、リンパ液、脳脊髄液の循環が阻害されることにより身体に病変が起こる。
・体内循環や免疫力の低下、内臓機能の低下などの形で、身体の全器官に深刻な影響を与えることを解明した。
1874年6月22日 午前 10:00 公式にオステオパシーを発表する。
A.T スティルの唱えたオステオパシー4大原則
- 構造と機能は相互関係にある。
- 身体は自然治癒力を持つ。
- 身体は肉体、精神(魂)が全体として働くひとつのユニットであり、身体の諸器官や組織は互いに関連して機能している。
- 施術は以上の原理に基づいて合理的に行われる。
▪️地元の医者と司祭からマジックを利用した治療だと言われ非難された。
▪️各地を点在しながら人々の治療をして回る。
▪️やがてミズーリ州のカークスビルに診療所を建てた。
キチガイ医者から名誉市民へ
・ スティルの治療の効果を聞き、全米中から患者が訪れた。
・ 治療を受ける為に鉄道が引かれ、ホテルが建築されるほどになった。
・ カークスビルは彼の功績を讃えて、名誉市民として表彰した。
1892年11月1日 American School of Osteopathy (ASO)が設立
オステオパシーの普及
▪️1894年
ミズーリ州でオステオパシーを法制化する法案が通り、D.Oに「医師」としての資格を与える。連邦のすべての州で、そして諸外国にもオステオパシーは普及していった。
▪️1910年
オステオパシーが全米で医学認可される。
ジョン・マーティン・リトルジョン(John Martin Littlejohn) MD
(1865-1947)
・AT スティルのオステオパシー治療を受けたことがきっかけとなり健康が回復。
・ カークスビルオステオパシー医科大学にて学生として登録し、初代生理学部長を勤めた。
・ スティルはオステオパシーを解剖学主体として捉えたが、リトルジョンは生理学の観点からオステオパシーを捉えた。
・ リトルジョンの研究における解剖学と生理学との融合はオステオパシーを学ぶ学生にとって、スティルの提唱した四大原則を理解するために最高の教示となった。
リトルジョンの研究
オステオパシーとは生理学的な物理学である
・力学的要素と交感神経の支配下における内臓器への影響について研究を進め、重力により関節や筋組織、神経等に圧迫が生じて浮腫が発生し、全ての疾患の原因の一部となる事と言う事を研究した。
・解剖学だけでは人体の構造とメカニズムは解明されるが、それらの働きや結びつき、すなわち生理学を取り入れなければ機能との相互関係に結びつかないと考えた。
オステオパシーの定義
オステオパシーは以下の点に特化した知識体系・治癒体系である。
(a). 症状ではなく、組織の位置変化や体液流動の阻害、有機体の力学障害などによる疾患の原因を身体的・物理的手法を用いて特定することによって、疾患の診断を行う。
(b). 力学的障害の除去・矯正することで、病変部位の自然な回復を促進させたり、抗毒・消毒状態を作り出すことで有機体(もしくはその一部)の毒性症状に対抗させたりして、疾患に打ち勝ち、健康状態を確立させるという身体に本来備わっている能力を活かして、術者は物理的な処置を患者に与える。科学的体系に即した疾患治療である。
(c). 破損や脱臼を起こした骨格構造を調整し、裂傷を修繕させ、さらに有機体の生命を脅かす組織要素、その異常成長を除去すべく、力学的かつ外科的な処置を施す。
シカゴオステオパシー大学 と リトルジョンクリニック
▪️1913年 英国へ帰国
▪️1917 年 ブリティッシュ・スクール・オブ オステオパシー(BSO)を設立
▪️1939年 BSOでの教育を引退
▪️1947年 死去
リトルジョンの死後
● 後継者たちはリトルジョンのオステオパシーの教育と研究を除外した。
● オステオパシーの原則とは不適合な医学教育の制度を取り入れ始めた。
● オステオパシーは筋骨格障害の治療にだけ適しているとみなされる傾向に変わっていった。
ジョン・ワーナム(John Wernham) D.O
(1907~2007)
1953年
ATスティルとJM.リトルジョン の意思と哲学、原則を忠実に守るため、J.フロービー、T.E ホールらと共に、ケント州メイドストーンに 応用オステオパシー学院 を創立する。
1980年
ジョン・ワーナム・クラシカルオステオパシー大学と改名
・ 半世紀以上の間、スティルとリトルジョンによるオステオパシーの教えを忠実に守り、実践している。
・ 広範囲な健康問題に対処するオステオパシーの役割を堅持するため研究と教育、治療をつづけている。
右図 : 近代のオステオパシー
日本におけるオステオパシー
・1910年 日本にオステオパシーが初めて伝えられる。
・他の療術と組み合わされた形の「山田式整体術」と名前を変えて伝わり、オステオパシーの名前は広まらず、その知名度は日本では低いものとなってしまった。
・しかし日本における療術も多大なる影響をオステオパシーに受けている。