体液に対する考え方

血漿やリンパのように、細胞の外にあってそれの物質的環境をつくる液体が体液です。血漿とリンパは本質的には同一物です。体液の基本的な性質はその組成の安定性です。どんなに感情が動いても、どんなに外部環境が変わっても、わたしたちの体の生理作用はほとんど変わりません。この事実は、体液の圧力や組成をほぼ一定に保つ調節作用の存在することを物語ります。

血管は、その壁に分布する神経によって太さを変え、血液の量が増減しても血圧が変わらないように調節します。血液の量が増えたときには、これと同時に、毛細血管壁をとおって血漿が外ににじみ出していきます。血液の量が減るときには、まわりの組織から毛細血管のなかに水分がしみ込んでくるばかりでなく、飲食物の水分が胃壁からただちに血管に入り込みます。

出血によって大量の血液が失われると、すべての血管が収縮して、血圧を高める一方、全部の毛細血管がまわりから水分を吸収して血漿の量を増やします。それによって、患者はのどが渇いて水を補給することになります。

皮膚の一部が損傷したとき、そこに自分の皮膚を移植するのであれば、それは生きていますが、他人の皮膚を移植してみても、それははがれて死んでしまいます。例外は、一卵性双生児だけであって、母親の皮膚でもうまくいきません。これは、体液の個体差による一方、自己以外の個体に対する非寛容として理解されます。すなわち、生体は、自己以外の個体の細胞や組織が消化管でない所に侵入すると、それを抗原として抗体をつくり、これを排除しようとするのです。

動物実験によれば、生体は胎児期には自己を確立していないので、この時期に他の個体の細胞を注射しておくと、この胎児がやがて大きくなったとき、その特定の他の個体の皮膚を移植することができます。
皮膚や臓器の移植で起こる抗原抗体反応を拒否反応といいます。この反応を抑える薬剤の利用によって、腎臓や心臓の移植が可能となっています。

非自己に対する非寛容はヤツメウナギより高等な全脊椎動物に見られますが、植物にはこれに相当することが見られません。接木(つぎき)のできることだけを見ても、動物と植物との違いの大きいことがよくわかります。

動物において、組織や器官の移植が簡単にできないのは、一応、体液の個体差として説明することができます。血液については、輸血ができるかできないかによって、大雑把に四つの血液型にわけることが行われていますが、厳密な意味では、一卵性双生児以外には、同一の体液をもつ個体は、地球上にひとりもいないと考えてよいです。

このような体液の個性は、脂肪・糖・タンパク質の三者が結合した高分子化合物の構造の違いによるものと考えられています。そして、この構造は、同一民族のなかでは、かなりの近縁性をもつと考えられています。

ある個人の体液は、年とともに変化していきます。それは、全身の細胞の代謝産生物をとかしこんでいくことからきています。

イヌの血液の大部分をぬいて、その血漿と血球をわけ、血漿を生理食塩水にとりかえてもとにもどすと、2週間もたたないうちに、血漿の組成はもとどおりになります。この事実から、体液の組成は、その個人のその時期に特有なものであることがわかります。これがすなわち、体質の実質です。胎児にしても、それは胎盤をなかだちとして母胎とつながっているために、その体液は母親のそれと違うのです。異常体質の概念は、体液の個性と結びつけて考えたとき、はじめて明らかになるでしょう。

 

 

 


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