生体をつくる分子

断食と呼ばれる難行があります。それは今日、様々な病気の治療を目的として、一部に行われています。

断食の本質は、栄養物質の供給を断つことです。これによって生体は飢餓状態に陥り、糖質、脂質、タンパク質などの蓄積を吐き出さざるを得なくなります。したがって断食を続けていると、貧血や低タンパク血症にやがて見舞われます。あわせてナトリウムなどの電解質が流失します。それをなお強行すれば、生命の炎は燃え尽きてしまいます。これを、人間の命が物質によって支えられていることの証拠とみることができます。

わたしたちは、栄養物質を摂取して、頭を使ったり、力仕事をしたり、不要の物質を排出したりします。これらを、入力と出力とに分けることができます。断食では、出力がゼロにできないのに、入力をゼロにします。したがって、そこに無理がおきます。

今日、断食で死ぬのは事故ですが、「明治」以前には、修行僧が即身成仏と称して、断食による自殺を敢行することが珍しくありませんでした。断食にせよ他の原因にせよ、人間の出力は、死ねばゼロになります。出力こそが生命の実体だといえるでしょう。

生死の判定を巡る論争は、しばしば蒸し返されます。高感度の計器を使って調べてみると、生きているからだの任意の二点間には電位差が存在します。死体にはこれがなく、全身が等電位です。種子についてさえも、同様の現象があって、電位差のあるものは生きていて発芽し、電位差のないものは死んでいて発芽しません。生命の実体は電気だ、といえなくもありません。命の炎は、電灯のように、電気によってともっているかのようです。

一方、生物をも含めて、すべての物体は分子からできています。人間も例外ではありません。しかし、生体をつくる分子は、細胞という形に集合しています。したがって、生体は分子からできているというよりは、細胞からできている、といったほうが直接的な感じです。生体が電気をおこす現象も、分子がおこしているというよりも、細胞がおこしているというべきでしょう。

代謝という言葉があります。それは、生体内の化学反応を意味しています。化学反応は、細胞と細胞とのあいだにおこる現象ではなく、分子と分子とのあいだにおこる現象です。このとき分子間には電子の授受が行われます。この現象が、生体内の二点間の電位差として検出されるのです。したがって、生命の実体を電気とみることは、生命の実体を代謝とみることと同じになります。

 


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